小学校低学年の頃の記憶なんて意外と弱いものです。それでも昔の時代のフィルム(映画)の様に途切れ途切れでいて、それでいて温かい思い出は残っています。そんな記憶が嫌な思い出ばかりでなかったことが何より私の宝物です。
小学校2年生の春、我が家は横浜に引っ越しました。
右も左も分からない、そんな年頃の子どもは、右も左もわからない、そんな土地に来たところで、そこで案外うまく順応していくものです。
でも、そうそう柔軟ではない子どもいます。小さい頃から気まぐれで頑固な私の性格は、今まで共感関係にあった子どもたちと離れ、新しく共感していく友達を見つけるのを難しくしていたことでしょう。
転校して初めての始業式の日。実は朝早く学校にいって教室をみました。黒板をみると、そこには枠をはみ出しそうなくらいにぎやかな絵がかかれていて、そこかしこに”タヌキ”が書いてありました。「ナンダロウこのラクガキ…」
始業式のときグラウンドで先生が私たちのところに駆け寄ってきて、出席確認をしました。
先生は元気で若くてかわいくて、ちょっとソバカスのある女の先生でした。それもそのハズ、新任の先生だったのです。出席確認が終わると先生は自己紹介をしました。
「初めまして!おはよう!私はワタヌキです!みんな黒板は見たかな?
タヌキがたくさんいたでしょう?それをワッカで囲んでワタヌキなの!一年間ヨロシクね!」
そのあと、私ともう一人の転入生の紹介をしてくれました。
新学期に転入してきたのは、私と、もう一人のオオハタ君でした。
オオハタ君はすっごくアタマがよかったです。工場見学の時にはいっつも工場の人に質問してウンウンうなずいて、博士みたいでした。
その姿がちょーかっこいいんです。私なんか社会科見学の時には工場に置いてある機械そのものに見とれるだけで、残念ながら先生の話はまさに、「右の耳から入って、左の耳からでていく」ような感じでま〜〜ったく覚えていないんですから。
ワタヌキ先生は、最初の授業でみんなの自己紹介が終わると、先生の名前の紹介をしてから、ひとつの救急箱のような箱を机に置いてその中からスタンプを取り出しました。
みんなが不思議そうにみていると先生がおどけた表情でいいました。
「これはねぇ、『ワタヌキスタンプ』っていってね。私のおじいちゃんの頃からあるのヨー。ホラ、ワッカの中にタヌキがいるでしょう?
このスタンプはねぇ、たーくさん種類があってね、いろんな顔が書いてあるんだよー。みんなは一年間で全部集める事ができるかなぁ?」
先生がその時出したのは「がんばったね!」と書いてある、笑顔のタヌキのスタンプでした。他にどんな顔のタヌキがあるのかすごく楽しみになりました。
私が転入してきてしばらくしてから、初めての算数のテストがあって、その次の日にテストがかえってきました。
次の瞬間、私はワッと泣き出しました。
どういういきさつか覚えていないけど、私とオオハタくんのテストが比べられたのか、ともかく、当然のように私のテストの結果の方が点数が低くて、転校生がどんな点数を取るかを知りたくて比較されて、ヒヤカサレて、悔しくなって泣き出したのでしょう。
そのあとは先生に言われて居残り勉強でした。先生と私以外誰もいない教室で、先生は優しく優しく教えてくれたのに、私は気持ちが落ち着かなくて肩をヒックヒックさせながら教えてもらっていました。
「ノコベン」の終わりに、先生が「ワタヌキスタンプ」の箱から一つ取り出してテストの答案用紙にポンと押しました。
それは泣いた顔の「泣きダヌキ」でした。
「やさいくん。キミはねぇ……。今日はできなかったかも……。
今日は泣いちゃったから『泣きダヌキ』だね。ハイ!」
そういって、ポンと答案用紙に泣きダヌキが押されました。私と共感してくれる友達が、答案用紙に来てくれたのです。
それにしても、一つ一つ優しい言葉で話してくれたときのフンイキは覚えていますが、なぜかひとつひとつのコトバが思い出せないのです。
どうして一つ一つしっかり覚えていないのかって?
それは、優しく励まされたのがすっごく嬉しかったのと、そのせいで悔しくてみんなの前で泣いてしまったのがまた悔しくなって、また泣き出しそうになったのをこらえてヒックヒックと肩を揺らしながら下を向いて聞いていたからかもしれません。
その一年間、ワタヌキ先生はいつも元気で、優しくて、たまに叱る先生でした。叱られても怖くなかったのは、先生がいつも優しい事をみんなが知っていたから。
もう一つ覚えているのは、「〜くん、〜ちゃん騒動」です。
クラスのみんなが新しい仲間になれてきた頃、当然のように男の子のグループと女の子のグループという感じで休み時間は二つのグループができていました。
あるとき一人の男子が、「〜ちゃんって呼ぶの赤ちゃんみたいだよな〜」といって男子のグループみんなでヒヤカシ始めました。女の子は当然怒って反撃とばかりに、男の子に向かって「〜ちゃーん」と呼んでクチゲンカが始まりました。
その事件を知って、みんなを集めて次の授業をつぶしてワタヌキ先生がいいました。
「『〜ちゃん』って呼ぶのは全然恥ずかしい事じゃないよ。
大人の人はみんな、男の人も女の人も『〜さん』って呼ぶんだよ。
これからは男の子も女の子も『〜くん、〜ちゃん』って呼んじゃだめね。
みんな『〜さん』って呼びなさい」
その次の時間からみんな『さん付け』をしないといけなくなりました。女の子はそう呼ぶのになれていたからまだ良かったけど、男の子はそう呼ばれると恥ずかしがってしまって、それ以来「〜ちゃーん」といって馬鹿にすることはなくなりました。
そのかわり、女の子を呼ぶときには名前を呼ばずに「オイッ!!!」と呼ぶことが多くなったんですけどね…。
1週間もするとその問題はなくなっていました。『さん付け』もいつのまにかなくなりました。別に先生は『さん付け』しないことを怒らなかったから不思議です。
でも、『〜さん』と呼ぶことで、コトバが軽くなったというか、角が取れたというか、そんな雰囲気になったから不思議です。
あっという間に終業式の日になりました。先生は教室でみんなにいいました。
「…やさいみたいに泣き虫な子もいるし、ヨコタみたいにワルサするやつもいるし、…」
そんな風にして、一人一人の個性をみんなに話してくれたというのを覚えています。
しっかし、実際覚えているのはヨコタくん(通称、ヨコチャン)のところだけです。実は自分が何を言われたか覚えてなかったりして…。ゴメンネヨコチャン。
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